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【プロフィール】エスカレーター人生から転落した私が再出発するまで

「30年間、いつか楽になると思ってた。でも、ならなかった」

尊敬する先輩教員の言葉が、私の人生を大きく変えるきっかけとなりました。

もえ
もえ
このブログを読んでいただき、ありがとうございます!
ブログの管理人の「もえ」です。

私はエスカレーター人生から転落した30代元教員

深く考えず、引かれたレールをただ歩んできた結果、
気づけば教員にも戻れない、一般企業にも戻れない。
でも貯金は減っていくばかり。

人生が急降下してしまいました。

でも、このどん底から這い上がるため、私は新しい人生を選択する決意をしました。

このブログでは、1年かけて
ゼロから在宅ワークで月収30万円を実現するまでの
軌跡
ありのままにお伝えしていきます。

同じように感じている方に、少しでも響くものがあれば嬉しいです。

  • 安定を求めて選んだはずの人生に違和感を感じている方
  • 今の生活に漠然とした不安を抱えている方

まずは、どうして安定していたはずの人生がこんな状態になってしまったのか。
その物語からお話していきますね。

しばしお付き合いいただけると嬉しいです。

基本情報

✎ 名前: もえ
✎ 家族: 夫と二人暮らし
✎年齢: 36歳(1989年生まれ)
✎経歴: 小学校教員 → 会社員 → 現在、キャリア転換中
✎好きなもの: 旅行、英語、動物、コーヒー、Netflix
✎性格: 明るく好奇心旺盛。責任感が強いが、三日坊主

幼児期 ~甘やかされて育った箱入り娘時代~

宮城県の普通の町で、両親と兄2人の5人家族の末っ子として誕生。

父は小さな建設会社を営み、母は保育士として働き、
忙しいながらも子供達をいつも温かく見守ってくれる愛情深い両親でした。

母は保育士ということもあり、子供用のイベントを見つければ連れて行ってくれたりと
教育的配慮をしながら、一緒に過ごす時間をたくさん作ってくれました。

父は自営業なので、365日朝から晩まで仕事モード。
それでも母を気遣い、わんぱくな私たちを軽トラックに載せて
どこにでも連れて行ってくれました。

一人娘として甘やかされ育った私は、
家族にも周囲の大人にも全てわがままを聞いてもらえるほど
甘やかされ、困ることを知らずに育ちます。

そんな環境で、知らず知らずのうちに「深く考えなくても、人生はうまくいく」という甘い考えが染みついていったのです。

小学校時代 ~自分が大嫌い 自分らしさの喪失~

しかし、小学校で初めて「現実の厳しさ」を感じ始めます。

明るく活発な性格で、男女関係なく誰とでも仲良くなることができました。
男兄弟の中で育ったので、友人と野外遊びやテレビゲームをして遊んでいました。

高学年になってくると女子は女子らしくなり
その中に入っていくことが難しい場面が増えました。

そんな時に学校でいじめが流行りはじめ、
私も仲の良いグループの中でいじめにあってしまいました。
一日の大半を過ごす学校が地獄に変わったことを覚えています。

さらに、家に帰れば、兄にも「デブ」「ブス」などと
容姿についていじめ
られるようになりました。

この頃の私には、学校と家庭は世界の全てだったので
子供ながらに「自分はいらない人間なんだ」と思うほど追い詰められてしまいました。

ここから、「ありのままの自分」を隠し、
周りの顔色を伺いながら生きる
ようになりました。

中学時代 ~中の上の優等生 「平凡」という安全地帯~

中学に進学すると、周囲との交友関係や兄の高校進学による生活の変化があり、
環境が変わったことで、いじめから解放されました。
平和な学校生活を過ごすことができました。

しかし、いじめを受けたトラウマから、顔色を見ながら人に接する癖は変わらず
目立たないよう「無難」を選び続けるようになります。

中学では部活が始まり、ソフトテニス部で週7の練習に打ち込み、
考えることから逃げるように部活に没頭

練習のおかげで部内では1番手になり、
学業もそれなりの成績を修め、部活も学業も中の上の実力。
誰からも批判されない、でも誰からも特別視されない「平均的な生徒」として過ごしました。

高校選びですら、「無難な選択」。
友達が多く行く、偏差値的に無理のない高校を選びました。
幸運なことに、受験勉強を一生懸命頑張らなくとも、推薦で入学することができました。

親に心配をかけることもない、部活を頑張る「平均的な子」。
部活が人生の全てで、深く考えることなく、「今」を無難に生きていました。

高校時代 ~部活三昧から突然の進路選択~

高校でも部活漬けの日々は続きました。
相変わらず無難な成績を維持しながら、目立たたない存在として過ごす毎日。

ただ、週6で練習していたこともあり、部内で一番手になったり
ソフトテニス部の部長として選ばれたり、
チームをまとめる立場になり、それなりの充実感はありました。

しかし、致命的な問題が一つ

本来なら2年生の終わり頃から将来を考え始め、進路について考え始めますが
3年生の夏まで、将来のことを何も考えていなかったのです。

突然の進路選択を迫られた私は、
これまでの習慣のように、また「無難な道」を選びます。

その時の私の単純な思考回路はこうでした。

  • 安定志向の母の影響で「公務員」を視野に入れる
  • 多忙な自営業の父を見てきた経験
  • 部活と英語が好き
  • 人に教えることに抵抗がない、むしろ楽しい

これらを組み合わせて出した答えが、
「教員になれば、安定していて、好きなことも活かせる」

またしても推薦入試で行ける教育大学を選び、
ここでも深く考えることなく、人生の次のステップを決めてしまいました。

部活動に全てを捧げ思考停止状態の私は、進路について必死に努力したり、
挫折することもなく、ここまで来てしまいました。

【安定&自分の好きなこと=教師】という安易な決断をします。

大学時代 ~価値観が揺らぎ始めた日々~

学部時代

北海道の教育大学へ進学
初めての一人暮らし。

部活、バイト、友人との時間と自由な大学生活が始まりました。

しかし、その自由は長く続きませんでした。
まさかの「宗教」のようなゼミに入ってしまったのです。

想像を絶する日々が始まりました。

  • 終わらない課題
  • 夜中までの説教会(まるで魔女裁判)
  • 教授による部活・バイトの制限
  • うつ病や不登校になる学生も

このゼミは、後に大学との裁判沙汰にまで発展。

自分の意見を言えば叩かれる環境で、
私は再び「自分らしさ」を封印する毎日を送っていました。

そんな中、救いとなったのは留学でした。
たった1ヶ月のアメリカ留学でしたが、
私の価値観を大きく揺さぶる経験となります。

「自分らしく生きる」ことを大切にするアメリカの文化に触れ、
今まで生きてきた世界とは違う場所があるんだと実感しました。

この経験は、私の将来の選択にも影響を与えます。
「文法」よりも「コミュニケーション」を重視する
小学校での英語教育に魅力を感じ始め、
大学院でもっと勉強してから小学校教員になろうと決断しました。

大学院

大学院では、同期の半分が留学生だったことから、海外への興味も一層強くなり、
思い切って、オーストラリアへ交換留学に挑戦することに決めました。

最初の10ヶ月は留学生として過ごし、その後はワーキングホリデー
現地の学校で日本語教師のアシスタントとして働きました。

この経験で、仕事に対する価値観が大きく変わります。

オーストラリアで目にしたのは

  • 仕事はプライベートを充実させるための手段
  • キャリアチェンジを恐れない生き方
  • 同じ会社に留まることが「美徳」とされない文化

日本では「終身雇用」「会社への忠誠」が当たり前でしたが、
オーストラリアの上司は自分のキャリアを積極的に切り開き、
その姿に、「日本の常識」は唯一の正解ではないと気づかされました。

大学時代の窮屈なゼミ生活でまたしても失った自分らしさでしたが、
海外での経験を通じて、新しい働き方と生き方の可能性に出会えた時期でした。

教員時代 ~エスカレーター人生からの転落~

エスカレーター人生 崩落の予兆

教員採用試験に合格し、無事、公立小学校の教員になりました。

配属先は山間部の小規模校。各学年20名以下の小さな学校で、
子供たちは素直で、保護者も協力的。同僚も面倒見のよい先生ばかり。
理想的な環境に思えました。

しかし、新任早々に学年主任を任され、現実は過酷でした。

  • 朝7時から夜8時までの勤務
  • 朝の会から下校まで子供たちと常に一緒
  • 放課後は保護者対応と会議
  • 授業の準備は終業時間後からスタート
  • クレーマー対応、いじめ問題、膨大な書類作業
  • 献身的に子供達を指導する同僚、自身の子供と向き合う時間が少ない

毎日緊張が張り詰め、へとへとになるまで働きました。

やりたかった仕事についたものの、不満ばかりがたまっていき、
帰宅すれば両親に愚痴ばかり。
父と母も仕事で疲れてのに、今思えばとても申し訳ない気持ちでいっぱいです。

心も体も限界を迎え、ある日、帯状疱疹を発症
首には謎のしこりもできて、明らかに体がおかしくなっていました。

限界でした。

そんな時、尊敬する50代の先輩の言葉が心に刺さります。

「30年間、いつか楽になると思ってた。でも、ならなかった。」

これをきっかけに自分の人生への違和感が常に付きまとうようになりました。

人のために心身をすり減らし、自分の家族も大切にできない、こんな人生でいいのか?

こんな風に思いながら過ごすようになりました。

理想のキャリアを求めて転職

ある日、大学の恩師から
インターナショナルスクールへの引き抜きの連絡をいただきました。

「ずっと好きだった英語を生かせるかも」
「外資系の学校だったら、もっとプライベートを大切にした働き方ができるかも」

と思い、思い切ってインターナショナルスクールに転職することを決意。

確かに、外国人スタッフも多く、仕事の量は減りました。
自分が求めていた好きな英語を使って仕事ができ、充実した日々を過ごしていました。

しかし、

  • 警察沙汰になるような児童・保護者対応
  • 勤務時間外の緊急対応
  • 給与面や福利厚生面での不安定さ(契約社員でした)

「教師という仕事の本質は変わらない」

「心がすり減る感覚からは逃れられないんだな」とここで確信しました。

新設の学校だったので資金面で不安定であったため、
前職より給与も減り、福利厚生もかなり不安が残る内容で
「ここで一生働くことは無理かもしれない」と心の隅ではいつも一抹の不安がありました。

早すぎる父の死

私の父は建設会社を経営し、年中無休で働き続けた人でした。

高校時代はボクサーで全国大会に出場するほどの体力の持ち主。
誰よりも頑強で、いつまでも元気でいると思っていました。

真冬のある夜、母に急かされて目を覚ましました。

「お父さんの具合が悪くて…救急車を呼ぶ」

え?私の中では晴天の霹靂。

「お風呂に入ってもガタガタと震えが止まらない」というのです。

風邪をひいていたにもかかわらず、大雪の翌日、
父はいつものように現場や親戚、近所の家まで雪かきをして回っていたのです。
他人のために働き続けた父らしい行動でした。

パニックになりながら救急車を呼び、緊急入院

救急車で運ばれた病院で、私は衝撃の事実を知ります。
父は「間質性肺炎」という不治の病を患っていたのです。
肺が徐々に固くなっていく病気で、すでに数年前から発症していたが
私たちには秘密にしていたと母は言います。

治るはずだった風邪をこじらせ肺炎を発症してしまい、
間質性肺炎を患っていた父の体には大打撃でした。

あれほど元気だった父が、あっという間に変わっていきました。
病院のベッドから起き上がることもできず、
常に酸素吸入が必要な状態。
そしてわずか数ヶ月で、父は他界しました。

「もっと一緒にいる時間があると思っていた」
「まだまだ先だと思っていた」

後悔の念が押し寄せる中、
私は人の命のはかなさや家族がいることのありがたさを痛感しました。

さらに、祖母も叔父も同じ病気で亡くなっていたと知り、
遺伝性の病気という事実に愕然としました。

この経験が、私の人生観を大きく変えました。

「命は限られている。
家族も、自分も、いつ最期が来るか分からない。
なのに、毎日を心身共に疲弊し、
ネガティブな想いを抱えながら生きていく意味があるのだろうか

迷走期 ~自分の理想の仕事を探してもがく~

自分がやりたいこと? 自分の市場の価値

素敵な方とご縁があり結婚。彼の住む千葉に引っ越すことに。

無職になって改めてキャリアを考えた時に頭をよぎったのは

「教師を続けることが怖い」

ここはきっとキャリアを変えるチャンスかもしれないと思い、
本当にやりたいことを探し始めました。

ここからが迷走期の始まり。

今までの「エスカレーター人生」が仇となります。

「そんなに努力しなくても、いい仕事は見つかるはず」
そんな甘い考えは、すぐに現実に打ちのめされました。

当時はコロナ過だったので在宅で働くことも視野に入れ、
好きな英語を活かしてフリーランスの道を探りました。

しかし、フリーランス仕事紹介のエージェントとの面談で、

「実績がないので、ご紹介できる仕事はありません」

自分は市場に需要がない存在。地に落とされたようでした。

初めてのOL時代

その後、転職サイトにも登録して、何とか自分を雇ってくれる企業を見つけ就職。

教員から会社員に心機一転しました。

教師をやっていたらできなかったことを実現できたので、
OLライフは新鮮で結構気に入っていました。

  • ゆっくりとした勤務開始
  • 週3の在宅ワーク
  • 残業がない
  • きれいなオフィス
  • かわいいカフェでランチ

でも、次第に問題が見えてきます。

  • ドライすぎる人間関係
  • 褒めない、しかし指摘し合うのが通常運転
  • 毎年、複数人退職する部署
  • 心身の異常をきたす同僚も複数出る
  • 結果、常に人手不足
  • 仕事量が増えても給与は大きく変わらない

社内は在宅勤務と出社勤務が混在する職場で、基本はチャット上での会話。
同僚同士で交流する場面がなく、常に同僚との距離を感じていました。

いやいや、1年経てばきっと馴染めるだろと言い聞かせていましたが
2年経っても変わらず、特殊な会社の文化に慣れることはありませんでした。

常態化する人手不足のため、仕事量は増える一方。
ある日、異変に気づきます。

  • 座っていられないほどの疲労
  • 休日は寝て過ごすだけ
  • 気持ちの波が激しくなる

数カ月こんな状況が続き、病院へ。
検査の結果、「橋本病」という不治の病気
を発症していたことが判明。
(甲状腺ホルモンの分泌が減少し、代謝が低下する病気)

ショックを受けるとともに、父の死を思い出し、背筋が凍りました。

「今私はこの仕事を自分の命を削ってでも、この仕事をやりたいのか?」

将来は実家近くでの生活も検討し始めていたので、
心身を守るために、このタイミングで退職をしようと決意しました。

自分の市場価値の低さに絶望し、やっと入れた会社でも
また理想のキャリアに出会えず、心身共に衰弱してしまい、
後先決めずに、「退職」という道を選びました。

リスキリングで在宅ワークへの道に希望を見出す

エスカレータ人生の完全崩落 路頭に迷う

退職後、体調を整えながら次はどんな仕事をしようか考え始めました。

しかし、3つの職場での経験が重くのしかかります。

私の中の不安はこう。

  • 教員には戻りたくない
  • でも会社員も、入ってみないと会社との相性が分からない
  • 子育てが始まったら、もっと大変になるはず
  • また家族の都合で引っ越しになったら、またキャリアのやり直し…

好きな英語を活かせる仕事を探しましたが、
どれも自宅から1時間以上の通勤。

何も積み上げられなかった自分に、深い虚無感を感じていました。

完全にエスカレータ人生から転落し、深く考えてこなかった私は
人生詰みました。

リスキリングスクールとの出会い

そんな絶望の中、運命的な出会いがありました。

インスタグラムで目に飛び込んできた
「PC1台で理想の働き方を叶える」
という言葉。
まさに私が求めていたもの。

在宅で安定したお仕事を獲得するための女性のオンラインのスクールでした。

最初は怪しいな…なんて思っていましたが、
勇気を出して無料の勉強会に参加してみると、

私と同じように「普通」だった女性たちが月収30万、50万、100万と
着実に成果を出している姿
目の当たりにしました。

このスクールの特徴に、私は希望を見出しました。

  • 明確な成功へのロードマップ
  • 技術だけでなく、成功者のマインドも重視
  • 充実した仕事獲得サポート
  • 前向きで活力のある講師や仲間たち

実は前職で、大人向けリスキリング事業に関わっていた経験から、
社会人がゼロからキャリアを積む上げることの大変さを目の当たりにしていたので、
このスクールの手厚いサポート体制大きな可能性を感じました。

ここで、悩んでいる暇はもうない!と決意します。

もえ
もえ
もう環境を理由に諦めない。
自分で人生の舵を取り、キャリアを楽しむ生き方をする!

私はこれから1年かけて、
在宅ワークでゼロからの月収30万円を目指します。

自身のできる限りを尽くして収入を上げていきます。

このブログを通じて、

「私の人生、これでいいのかな?」

と悩む誰かの道しるべになれたら嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございました。
またの次の記事でお会いしましょう!